期限まで半年ある改善活動では、会議が何度も先延ばしになる。ところが重大障害が発生し、24時間以内に復旧しなければならないとなると、同じ人たちが驚くほど速く連携しはじめる。逆に、毎週「今が正念場だ」と危機感を煽り続ければ、人はやがて疲弊します。
人は性格だけで動くわけではなく、置かれた状況が行動の選択肢も心理も集団のまとまり方も変えます。『孫子』第十一篇・九地篇(きゅうちへん)は、この問題を九種類の「地」に分けて考えた篇です。有名な一節もここにあります。
投之亡地然後存、陷之死地然後生。
「退路を断てば人は本気になる」とだけ読めば、現代のブラックなマネジメントを正当化しかねません。しかし九地篇の値打ちは、人を追い込む技術ではありません。状況によって人の動き方が変わるなら、リーダー側の打ち手も変えなければならない、という点にあります。
「場所」から「場所が人へ与える影響」へ
前篇の地形篇では、環境条件と組織内部の失敗を分けました。九地篇はさらに進んで、環境と人間行動の接続を扱います。
用兵之法、有散地、有輕地、有爭地、有交地、有衢地、有重地、有圮地、有圍地、有死地。
名称を暗記することが目的ではありません。自国に近く帰りやすい、敵地へ浅く入った、双方に価値が高い、複数勢力が交差する、敵地深くへ入った、移動が難しい、包囲されやすい、すぐ戦わなければ生き残れないといった制約条件の違いです。孫子はそれぞれで、戦う・止まる・交わる・謀るなど対応を変えます。同じ命令をすべての局面へ当てはめないということです。
九地を現代の「状況分類」として読む
軍事上の九地を、そのまま会社の九タイプへ変換することはできません。ただし、状況を分類して打ち手を変えるという構造なら応用できます。
散地に近い状態
参加理由が弱く、いつでも抜けられる。兼務者が多く、優先順位が分散している。ここで「危機感を持て」と叫ぶより、目的と利害をそろえるほうが効きます。
争地に近い状態
先に押さえると大きな利益があるが、競合も同じ場所を狙っている。速度と優先順位の判断が重要になります。
囲地に近い状態
選択肢が減り、失敗したときの逃げ道が少ない。打開策と意思決定の速さが問われます。
死地に近い状態
何もしなければ確実に重大な損失が出る。平時の合意形成をそのまま続けるより、短期の指揮系統と優先順位を明確にする必要があります。
気をつけたいのは、「うちの会社は死地タイプだ」と固定しないことです。同じ組織でも、案件ごと、時期ごとに状況は変わります。
状況を分類して打ち手を変える、という構造だけを借ります。
兼務が多く優先順位が分散。危機感を叫ぶより、目的と利害をそろえます。
競合も同じ場所を狙う。速度と優先順位の判断が効きます。
選択肢が減っている。打開策と意思決定の速さが問われます。
平時の合意形成を続けず、短期の指揮系統と優先順位を明確にします。
「深則専、浅則散」――まとまりは性格だけで決まらない
凡為客之道、深則專、淺則散。
敵地へ深く入れば軍はまとまりやすく、浅ければ散りやすい。退路や選択肢の違いが集団心理へ影響するという観察です。
現代でも、任意参加の勉強会と、会社の存続にかかわる危機対策チームでは、同じ人でもコミットメントの強さが違います。だから「この人は当事者意識がない」と人格で説明する前に、本人にどれだけ影響のある課題か、役割が明確か、成果と本人の利害がつながっているかを見る価値があります。当事者意識を性格に求める前に、当事者になれる状況を設計するということです。
「率然」――一人に頼らない構造
九地篇には「率然」という常山の蛇の比喩があります。
擊其首、則尾至、擊其尾、則首至、擊其中、則首尾俱至。
頭を打てば尾が助け、尾を打てば頭が助け、中央を打てば両方が動く。さらに、互いに敵対する呉人と越人でさえ、同じ舟に乗って風に遭えば左右の手のように助け合う、と続きます。
ここで描かれるのは、単なる仲のよい組織ではありません。共通の状況によって、部分同士が互いを補い合う構造です。現代の組織でいえば、キーパーソンが倒れたら全部止まるチームより、情報共有、代替担当、他部署支援、権限分散があるチームのほうが率然に近いでしょう。
「九地之変」――地が変われば打ち手も変わる
九地之變、屈伸之利、人情之理、不可不察也。
九地の変化、進退の利、人情の理を察しなければならない、と述べます。九地を覚えて「この地では必ずこの行動」と機械化してしまうと、この一文と食い違います。地が変われば人が変わり、人が変われば打ち手も変える。それが九地篇の読み方です。
「投之亡地然後存」を現代へ直結させない
逃げ場のない場所へ投じられると、かえって生存のために力を尽くすことがある。確かに、危機が集中力や連帯を高める現象はあります。しかし、ここから「だから部下の逃げ道をなくせ」と現代の職場へ直結させるのは危険です。
理由は三つあります。原典が扱っているのは軍事的な極限状況であること。現代の労働には安全配慮、健康、法令、退職の自由、心理的安全性といった別の規範があること。そして追い込みは、疲弊、隠蔽、離職、判断力の低下を招きうることです。
この一節から持ち帰るのは、切迫度が高まると人の行動様式は変化する、だから危機時の運営を平時と同じにしない、という観察原理までにとどめるのが安全です。
危機感を作るより、危機モードを設計する
現代のマネジメントで実用的なのは、人工的に死地を作ることではありません。本当に危機が起きたときに備えて、あらかじめ次を決めておくことです。
- 意思決定者を誰に集約するか
- 優先順位を何個まで減らすか
- 通常承認をどこまで省略できるか
- 何時間ごとに状況を共有するか
- 平時業務を何件止めるか
- 終了条件をどう判断するか
つまり「危機感」という感情ではなく、危機モードという運用を作るということです。
「同舟相救」――仲が悪くても協力できる条件
呉と越は、敵対関係の比喩として出てきます。それでも同じ舟で風に遭えば助け合う。ここから読み取れるのは、敵同士でも仲良くなれるという美談だけではありません。
共通の制約が、局所的な利害対立より大きくなると、協力の条件そのものが変わるということです。だから部門間の連携を改善するときは、「もっと仲良く」と呼びかけるより、共通のKPI、共通の顧客、共通の失敗定義、一緒に解く課題を設計するほうが効く場合があります。
平時の改善活動と、重大障害対応
通常の業務改善では、関係者の合意形成に時間をかけても大きな問題はありません。しかし大規模障害でサービスが止まっているとき、同じ会議体を使い続ければ復旧が遅れます。
危機のときは、責任者を一人決める、復旧以外の変更を凍結する、情報共有の間隔を短くする、役割を明示する、平時の承認を一部短縮するなど、運営そのものを変えます。これは死地を作っているのではなく、すでに変わった状況へ組織側を合わせている例です。
兼務10%の新規事業は「散地」になりやすい
各部署から優秀な人を集めたのに、全員が本業90%、新規事業10%の兼務だとします。会議で期待をかけられても、各人は本業の評価・上司・締切へ戻っていきます。
これを当事者意識の不足と呼ぶ前に、専任者、意思決定権、評価、期限、予算を見てください。組織を「深則専」に近づけるには、人を精神的に追い込むのではなく、役割と資源の深さを作るほうが健全です。
「逃げ道を断てば人は成長する」にしない
退路を断つ、公開の場で宣言させる、辞められない状況を作る、過大なノルマを課す。それを成功哲学として使えば、現代の職場ではハラスメントや健康被害につながりかねません。
九地篇は人材育成のマニュアルではありません。使えるのは、状況と行動の相互作用を読むための枠組みです。
3分ワーク:チームはいまどんな状況にいるか
- メンバーにはどれくらい退路・他の優先事項があるか。
- この課題の切迫度は本当に高いか。
- 平時と危機時で、意思決定の方法を変えているか。
- 一人が抜けたとき、別の人が補完できるか。
- 人へ当事者意識を求める前に、役割・権限・評価を与えているか。
五つに答えたうえで、人を変えようとしている点が一つでもあれば、代わりに変えられる状況を一つ書き出してみてください。役割か、権限か、評価か、期限か。そこが動くと、人の動きも変わります。
合わせて読みたい
出典・研究メモ
※軍事的な極限状況を現代の労務管理へ直接あてはめず、「状況が集団行動へ与える影響」と「状況別の運用」という抽象原理に限って扱っています。